井上三郎さんインタビュー

川崎フロンターレ応援団、川崎華族で太鼓を担当する井上三郎さん。川崎フロンターレのサポーターの枠を飛び越え、他のスポーツへの応援、さらには人との繋がりを大切にして川崎をスポーツで盛り上げたいと語るその笑顔に、太鼓を叩くたくましい姿とはギャップのある人間の温かみを感じました。川崎フロンターレの選手を応援で支え、J2時代から苦労しながら辿り着いた現在までの躍進の舞台裏に迫りました。



―――フロンターレサポーターになろうと思ったきっかけは?

当時、新丸子に住んでいて等々力競技場にJ2のチームがあるなと思って、競技場に足を運んでみたらガラガラで好きなところに座れて、試合そのものも面白くて、その試合で去年までコーチをやっていた久野さん(愛称:ベティーさん)がゴールキーパーが一歩も動けないフリーキックを決めて、「おー、すげえ選手いるな!」と思いました。さらにチケットも当時J1だと2,000円とか3,000円とかでしたが、800円とか1,000円で入れたので、次も行こうかなと思って行き始めたのがきっかけですね。



―――元々、サッカーが好きでしたか?

元々、サッカーは好きでしたよ。でも、部活は柔道部だったので、体育の授業でやるくらいでした。高校生くらいの時にJリーグが開幕して、部活サボって国立競技場に内緒で見に行ったりしていましたね。その時は、声を出して応援するようなことはしてなかったですね。



―――住んでいる場所がきっかけでフロンターレのサポーターになったと思いますが、そこから今現在の応援団の中心で太鼓を叩くというポジションまで行くのはどのような経緯がありましたか?

1999年にJ2で優勝して川崎フロンターレがJ1(2000年)に上がったのですが、そのシーズンが最下位で、1年でJ2に降格した。2001年からずっとJ2で鳴かず飛ばずで、試合もつまらなくてサポーターもどんどん減ってきたところで、自分の居心地がよくなったではないけど、応援団のちょっと横でくだらないヤジを飛ばしているくらいでしたが、2002年の開幕の時にいつの間にか応援団に入れられていて、2002年のワールドカップ明けから、「太鼓を今日から三郎ちゃんに叩いてもらいます。」と言われてそこから太鼓を担当するようになりました。一番、最初に叩いた時は、力の加減とかもわからず叩いていたので、20分くらいで手の皮とかがめくれて手が血だらけになって、腕もパンパンになってそのままリタイアした記憶があります。当時、ドラムのリーダーをやっていた方が2008年あたりにいきなりいなくなって(辞めて)しまって、当時太鼓を叩ける人が2人しかいなかったので、押し出される格好で一番前に出るようになりました。やるしかない状況になりましたね。そこから今に至っていますね。

井上三郎



―――ということは自分から太鼓をやりたいと申し出たわけではなかったのですね?

一度もやりたいと言ったことはないですね(笑)。身体が大きいからっていうのはあるかもしれないですね。今は、(コロナの影響で無観客試合のため)再開したら太鼓が叩けるか不安です。腕が以前よりも何センチか細くなっているのを感じます。なので、自粛期間中にスポーツ用品店で野球用のグローブを叩くバットみたいなものを買って、それでトレーニングしています。これを振ると太鼓と同じくらいの負荷がかかるのでちょうどいいんです。実際、太鼓を叩くのとは違いますが、衰えないように努力はしています。歳も取ってきてそもそも腕がつったりすることもあるんですけどね。



―――押し出された格好であるものの、ここまで続けてきた理由は何でしょうか?

一番は楽しいからですね。最初は辛かったですけど、「(太鼓が)下手くそ!」とか言われたりもしましたから。前の人が太鼓を叩きながらラッパを吹くみたいなめちゃくちゃうまい人だったので。そこから、自分のタイミングに応援を馴染ませるまでが大変でしたね。太鼓の叩き方やリズムの違いにサポーターは敏感な人が多いので。



―――川崎フロンターレのサポーターの中の応援団で活動しているということですよね?

そうです。川崎華族という私設応援団(主要メンバー20名ほど)で活動しています。サポーターと言うよりも(川崎フロンターレの)スタッフみたいな活動までしていますね。スタッフと話し合って、(開幕戦の)始球式の演出をこうしたらいいかとか一緒に考えたりしていますね。古賀(稔彦)さんの始球式の時(2020年2月22日開幕戦)、リハーサルから来てくれとスタッフに言われて心配そうなスタッフと一緒に準備しました。やっぱり、一緒に盛り上げたいんですよね。なんか、面白くなるようなことをスタッフに助言したりもしますね。スタッフもこっちのことを頼ってくれたりもしますし、一緒に良くしようみたいなことはありますよね。普通のチームのサポーターだときっとそこまではやっていないんじゃないかなと思います。平日のナイターゲームの時、「三郎さん、14時にリハーサルあるんで集合してください!」ってスタッフに言われて、俺のこと無職だと思っているんじゃないかって思う時もありますよね(笑)。選手紹介を電車の車掌さん風にやったりするのも一緒に相談して、もう少しこうやったら盛り上がるんじゃないですか?みたいな感じでいつも少し早く行ってやっていますね。

井上三郎



―――川崎華族として日本全国津々浦々、応援に行かれるのはすごくエネルギッシュな活動だと思うんですけど、どんなやりがいがありますか?

アウェーは誰かしら応援団が行かないと一般の人たちは自分たちが応援を先導するから、だいたい応援するので、逆に言えば先導しないと応援できないというか応援が成立しないんですよね。だから、誰かしら行ってコールのリードを取って太鼓を叩く人間がいるっていうのは最低限必要なんです。あと、川崎華族の横断幕を広げて貼ったりしないといけないので。やっぱり、アウェー行って勝った時は嬉しいですよね。みんなで遠くまで行って気持ちいいですよ。
仙台に行く時は、次の日に陸前高田(岩手)に行くのとセットになっていて、選手たちがサッカースクールをやったりするのを見に行って、そちらの設営なんかもしていますね(川崎フロンターレは2011年から「支援はブームじゃない」を合言葉に継続的な復興支援を行なっている)。めちゃめちゃハードスケジュールで疲れる思いはしていますね。(自分の)仕事を金曜日まで詰め込んで、夜から大阪とか名古屋とかに行ったりもするので体力はないとできないかもしれませんね。

井上三郎



―――そこまでタイトなスケジュールをこなしてまで応援する理由って何ですか?

陸前高田に行くことは、サッカーの応援だけではなくて地域の人たちと親交を深めるっていうのがあります。復興支援もひと段落して、人と人の繋がりを作ることをメインにやっているので、その辺にやりがいを感じていますね。以前から、フロンターレが陸前高田の親御さん達を招待して川崎を案内する「川崎修学旅行」という活動をしていて、そこに参加して知り合った向こうのお母さんが先日亡くなってしまって、この間もそのお母さんを亡くした子の家(陸前高田)までお線香をあげに仲間と行ったりもしました。その時には、町を案内してもらったりもしました。
川崎新田ボクシングジム(同じ川崎市に構えるボクシングジム)も、普段はサッカーとボクシングで本当はそんなに繋がりもないのに、「川崎のスポーツを盛り上げる」という名のもとに集まって応援に行きますし、そこでまた人と人の繋がりが出来ますよね。そういうのがすごく大切なことだと思います。

井上三郎



―――今は、「川崎を盛り上げよう」みたいな気持ちが強いですか?

そうですね。今は、こんな時期なので景気が悪くなっちゃうんで、フロンターレが率先して川崎を元気にしていかないといけないなとは思っています。だから、応援団の方でも試合の日は観戦ができなくても、街でフロンターレのユニフォームを着て出かけましょうといった呼びかけをしています。居酒屋だったり、TVで放送を流してくれるお店とかを回って、川崎フロンターレの旗であるLフラッグを軒先に出してもらうように新しい物を配って回りましたね。その時も大人だったり小さい子どもがフロンターレのユニフォームを着て歩いたりしていて、その人数がもっと増えていくといいなってみんなと話しています。

井上三郎



―――サポーターは試合を会場に応援に行く時は選手と共に戦っているという感じですか?

そうですね。自分たちの応援で少しでも選手の背中を押すことができたらいいなと思ってやっています。選手たちも応援歌があるといいプレーができるといってくれる選手もいます。川崎フロンターレは、他のチームと比較しても選手個人の応援歌が多いですよね。他のチームから移籍してきて、応援歌とか作ってもらえるんですかって聞いてくる選手とかもいるので、そういう応援歌が選手の励みになると嬉しいですね。



―――サポーターとしてもしくは太鼓を叩いている上で大切にしていること・気を付けていることは?

太鼓を叩いている時は自分の感情に流されないようにしています。太鼓を叩くリズムが変わってしまうので。どうしても早くなってしまう傾向がありますね。左右など周りを見ながら、サポーターの応援のテンションが落ちてきたなと思ったら、コールリーダーに「サポーターにちょっと声をかけてあげてよ!鼓舞してあげてよ!」と言ったりしています。応援に対する声かけを大切にしています。特に、元気がなくなってくる時間帯などもあるので、その辺を気にかけて見ています。そして、コールリーダーの海人(川崎華族)とは常にやりとりをしています。自分はとにかく興奮してきても太鼓のリズムのペースを乱さないように一定にすることが大切ですね。

井上三郎



―――今まで川崎華族として関わってきた中での最高の経験は何ですか?

それは、やっぱりJ1初優勝の時(2017年明治安田生命)ですね。その時は、本当にやっとかって思いましたね。その後、連覇ができたことも印象に残っています。また、どんどんタイトルを取って行きたいという欲も出てきました。
あとは、大久保嘉人選手が初めて得点王を取った時ですかね。横浜Fマリノスの優勝がかかっていて、フロンターレが3位でうまくいけばアジアチャンピオンズリーグに出られるといった試合でしたね。その時は、目の前で優勝されたくないっていう思いもあって、その試合はフロンターレのサポーター全員が最高の応援ができた試合でした。全くミスがなく、本当に完璧な応援ができた日だった記憶があります。すごく興奮しました。年に1、2回は「今日は完璧だった!」みたいな応援ができる日があるんです。初優勝した時もそうでした。でも、そのちょっと前のルヴァンアップでセレッソ大阪に負けたんですけど、あの時は最高の応援をしようと思って力みすぎて、途中で力んで腕がつって無茶苦茶になってしまって、腕が痙攣したまま叩いた記憶があります。力んでしまうとそうなってしまうので、「楽しもう!」っていう感じでみんなやろうってことにしたら、その年の最終戦がすごくいい応援ができましたね。

井上三郎



―――三郎さんにとって「応援する」とはどんな意味がありますか?

自分たちの応援でスタジアムの一体感を作るというのは、やっぱりやりがいがあるところです。その応援が楽しくて人が集まってくれるというのはすごく嬉しい。最初は、応援団を始めた時なんて、観客なんて1万人行くことなんて滅多になくて、そこから少しずつ色々と工夫して、応援歌の歌詞カードを配ったり、歌詞カードを配るだけではなくて色々なコーナーを作ったりして、飽きさせないように色々と話し合いをしましたね。工夫を繰り返して、少しずつ人が集まってくれるようになりましたね。最初は、3,000人から4,000人くらいしかいなかったので、空席の方が目立つくらいでしたね。やっぱり、この街のチームを応援しようと思う人が増えたのは嬉しいですね。
応援を通じて、色々な人とつながれることはすごく大切なことだと思いますし、自分にとっては宝物です。川崎のスポーツのボクシング、アメフト、相撲部屋を応援していて、たまに何のサポーターだか分からなくなることがあります(笑)。

井上三郎
井上三郎



―――サッカー界やスポーツ界に今後どのようなことを期待しますか?

今思っているのは、フロンターレの下部組織のアカデミーからどんどんフロンターレのトップチームに入ってもらって、そういう地元の選手たちがどんどん引っ張っていって欲しいと思います。三笘薫選手とか脇坂泰斗選手とかはアカデミー出身ですし、安藤駿介選手、宮代大聖選手とかそういう選手が中心になって引っ張っていって欲しいです。海外に行った板倉滉選手(オランダ:FCフローニンゲン)、三好康児選手(ベルギー:ロイヤル・アントワープ)もフロンターレのアカデミーからの出身でいるんですけど、川崎にいたことを誇りに思ってもらえる選手になって欲しいですね。実際に、ユースの応援で遠方まで応援にいったりもしています。だから、下部組織がいい成績を残してくれるのはそれもまた嬉しいんです。7月4日の開幕戦でロアッソ熊本のGKで出場していた内山圭選手もフロンターレのユースの出身で可愛がっていたので、そういう活躍もまた嬉しいですね。
これはフロンターレに限らず、下部組織から叩き上げの選手がトップチームでも活躍することになるとより面白くなると思いますね。

井上三郎



井上三郎(いのうえ・さぶろう)・・・1978年12月28日生まれ 川崎フロンターレ私設応援団:「川崎華族」所属 太鼓担当