篠原一三(いちぞう)さんインタビュー

やりたいと決めたらまず挑戦する。そして、努力をする。インタビュー中、きっと篠原一三さんの背景には1時間では語り尽くせない努力と苦労があったのではないかと想像します。娘さんの光選手をはじめ、これからを担う若者たちを力強くサポートする、篠原さんの信念とボクシング界の新たな可能性に迫ります。



―――まずは篠原さんのボクシングとの出会いを教えて下さい。

篠原 静岡の高校に通っていた頃、私立の進学校だったので勉強ばかりでは面白くないと思い、体育委員に立候補したんです。クラスのみんなに楽しい時間を作って喜んでもらえるのがやりがいでした。体育委員は高校三年間続け、その関係で体育の教師と仲良くなりました。自分の運動能力が高いことに気づかせてもらい、何か本格的に競技をやってみたくなりました。どうせやるならプロスポーツ選手になる可能性も考えて、これから始めるなら格闘系しかないと思い、プロボクサーを目指すことにしました。高校2年ぐらいに自主トレで毎日かなりの距離を走ったり、自己流ながらもトレーニングを続けました。ある程度ベースを作った後で、三年生になってから我慢できず地元のプロボクシングジムに入門しました。いつかプロとして本格的にやるなら、東京に行きたいと思うようになりました。
受験して早稲田大学(人間科学部スポーツ科学科)に合格したこともあり、希望通り、東京のライオンズジムでトレーニングを始めることができました。大学の講義そっちのけで練習したので実力はつきましたが、プロテストを受ける前に交通事故に遭ってしまい、その事故で足に後遺症が残ってしまいました。でもライセンスだけでも取りたくて、どうにかがんばって合格しました。やはり取ったからにはプロ選手として試合をしたくなり、後楽園ホールのリングにも上がりましたが、選手としての三年間で全戦績は1勝3敗。言い訳になってしまいますが、どうしても足の片方バランスが取れなかったです。左足の筋肉だけ細いし骨も曲がってくっついてしまっていましたし、そのままリタイアしました。自分で望んだ選手生活でしたが悪戦苦闘しましたね。



―――そこからすぐボクシングトレーナーになられたのでしょうか?

篠原 いえ、ボクシングやスポーツはもう無理だと思って辞めました。20代の一番元気がいい時にまるっきり動かなくなりました。十年くらい一切何もしませんでした。意地になってスポーツを捨てた感じでした。
30歳くらいに結婚した頃、いつからかテレビでNBA(アメリカのバスケトップリーグ)の試合ダイジェストを見るのが習慣になっていた時期がありました。見ていると体が熱くなりもう一度体を動かしたいと思うようになり、せっかくだから好きなバスケを始めることにしました。それまでバスケットボールを競技としてやったことが一度もなく、初心者として既存のチームに入っても足手まといになるだろうし、それでは僕も面白くないだろうなと考え、自分でバスケチームを作ることにしたんです。募集したら僕と同じように運動不足っぽいおじさんたちから、経験者の若者を含めて40人ぐらい集まってくれました。僕は体育館や道具を手配するなどチーム運営もしないといけないし、バスケの基本技術すら知らないようでは駄目だと思って、そこから勉強を始めました。夜中にボールを持って、橋の下などひと気のない場所へ行き、一人でこつこつドリブルやシュート練習などをしてました。そんなことをしていたら、近所の奥さんが、「娘が通っている小学校のミニバスクラブのコーチを探しているから、よかったら教えてやって欲しい」ということで引き受けました。子供だから大したことないだろうと思って体育館へ行くと、想像以上にレベルが高く驚きました。練習メニューも多彩で、審判もやらなければならず、さらに覚えることが多くなりました。バスケコーチの資格を取りに半年かけて講習に通ったりしました。小学生は素直なので、大人以上に練習したことが試合にそのまま出るのが面白かったです。基礎技術と勇気が大切なのはどの競技も同じだということも思いました。七年くらい、自分のチームとミニバスクラブで、ほぼ毎日体育館にいました。



―――再びボクシング界に戻ったのはなにがきっかけだったのでしょうか?

篠原 37歳の時、インターネットを眺めていたら、偶然『ライオンズジム 古山哲夫会長の還暦祝いを開催するのでOB集合』という掲示板の書き込みを見つけて、参加したことがきっかけです。そこでライオンズジムにも指導者がいないと聞いて、翌日ジムに行ってみたら、トレーナーがいないだけでなくプロ選手や練習生もほとんどいない状態でした。古巣の危機的状況をどうにかしたいなと思って、バスケ指導を続けながらジムの宣伝をしたり、指導もやらせてもらうことになりました。初めのうちは初心者を教えることばかりだったけど、かつて人生の全てをかけて取り組んでいた競技なので、バスケコーチよりもやりやすかったですね。幸いなことに、徐々に練習生が増えていって、試合にも参加できるようになりました。選手と共に喜んだり悔しがったりする中で、スポーツはいいものだなと本当に思うようになりました。自分は怪我をしてからカッコつけてスポーツを捨てたようなつもりでいましたが、振り返ってみるとその間がもったいなかったと思います。僕ができることは、スポーツの楽しさを伝えるくらいしかないことに、長い時間をかけて気がつきました。高校の体育委員だった頃に味わった喜びが身に染み付いているんだと思います。 ボクシングのブランクは20年くらいありますが、不思議なことに、「膝が悪くて動けねえ」って言った時よりも今の方が動けている気がします。選手を試合に出したい、一緒に戦いたいという想いがあるからこそ、足が動いているのかなという感じがします。

篠原一三



―――プロのボクシングトレーナーとしてのやりがいはどんなことですか?

篠原 ボクシングは個人競技なので、勝った選手はリングで喜びを独り占めしているように見えますが、試合まで選手に寄り添ってきたトレーナーはそれ以上にうれしいと感じることがあります。大抵の場合はトレーナーの方が選手より年上だし、勝利の瞬間により多くの人生経験が押し寄せ、深い感動が込み上げてくる感じですね。球技などのように1点でも多く点を取った方が勝つというルールより、殴り倒したっていうような(乱暴な言い方だけど)、格闘技なのでそういうものに対する興奮も強いと思います。そのような競技を自ら選んで出会った、激しい性格を持った者同士が、強いつながりを保って勝負に勝てる喜びは、格別だと思いますよ。 又、これまで全然勝てていなかったボクサーに指導していて、練習していく中で信頼関係ができていって、厳しい試合を最後まで諦めず勝った時はうれしいです。負ける可能性が高いと言われても、練習してきたことを信じて戦い切って勝つ時、これがあるからスポーツはいいなって思います。僕も人の役に立ったかもしれないと思えることがうれしいですね。



―――娘の光さんもボクシングをされていて、4月にJOCから認定されたオリンピック有望選手ですが、始めたきっかけは何だったのでしょうか?

篠原 僕がミニバスチームの監督に夢中になっていた時、光はまだ5歳でした。自分達は共働きだったので、夕方に僕が保育園に迎えに行って、一緒に小学校の体育館に連れて行きました。低学年の子供らと一緒に練習させておきました。
ボクシングトレーナーの仕事はその後だったので、そのまま一緒にジムにも連れていきました。バスケはチームメイトの子たちと楽しく練習できますが、ボクシングのトレーニングは孤独だし単調です。子どもは飽きちゃうので、30分ぐらいしか集中できないんですよ。だからその時間だけは決めてボクシングをやらせ、あとは僕のトレーナー業が終わるまで宿題や絵を描いて遊んでいましたね。又は、ジムの空いているスペースでバスケのファンダメンタルの動きをドリルでやらせていました。子どものうちからやっていくと覚えが早いです。保育園児のうちから小学生の試合に出てどんどんシュート決めていました。ミニバスは小三まで、その後は中学まで僕のチームで大人とバスケしていました。
続けていくうちに、バスケットボールからボクシングへ比重が移っていったという感じです。
ボクシングも子どもの頃からやっているとどうなるのかなとこれからの活躍を楽しみにしています。

篠原一三



―――光選手に接する時は親としてではなく、トレーナーとして接していますか?

篠原 家族として過ごす時間がある点では他の選手とは違いますが、娘だからといって試合や練習で殴られていることについて感情的になるとか厳しくなることは、特にありません。最初の頃は空手やキックボクシング出身の男子とばかり練習して一方的にやられることが多く、いつも血塗れで戦っていたので、心配の裏返しで怒鳴りまくっていましたが、そのうち慣れてしまいました。
今は逆に光の方が、僕に何か言われて納得いかないことがあると、多分他の指導者にはしない仏頂面をしたり、明らかに生意気な態度を出したりします(笑)。そんな年頃なので仕方ないですが、もうすぐオリンピックに向けてシニア部門の本格的な大会に参加できる年齢になるので、一切の甘えを捨ててもらいたいですね。練習も厳しい内容が求められるようになり、娘には理不尽に感じるようなこともあると思います。でも人間は弱いもので、なかなか自分一人だけでは追い込めない。そこを側にいるコーチが励ますわけです。辛さが態度に出てしまうのだと思いますが、僕も通った道ですので。こっちがわかっていればいいかなと思っています。一般的に親の指導で上手くいかない場合、原因としては、意思の疎通がうまくいかなくなったり、どちらかが生理的に嫌いになるとかあると思いますが、自分達にはそういうのはありません。僕が思っているだけで、光にとっては厳しいことが多いかもしれませんが、今のところ結果が出ていることもあり、何となくうまくいっています。親と子だからというよりも、絆が強く感じられるうちは一緒にやればいいんじゃないかなと思います。離れた方がいいタイミングというのは、その時になってみればお互いに察すると思います。それがなければ一緒にやり続ければいいんじゃないかなって気がします。

篠原一三



―――トレーナーとして大切にしていること、気をつけている点を教えてください。

篠原 アマチュアスポーツのトレーナーとして気をつけていることは、いかに選手に競技を長く続けてもらうかということです。いかに選手を強くするかと同じくらい、重要なことだと思います。僕の場合、指導対象のほとんどが学生なので、練習の雰囲気やメニューが楽しければ喜んでくれるし、試合に勝てば指導者を信頼してくれます。非常にシンプルですね。飽きさせずに練習を続けてもらい自信たっぷりに試合で勝ってもらいたいです。例え負けてもまた楽しく練習して、次に勝利の喜びを味わってもらいたいです。
又、子供は自分自身の考えだけでなく、親の期待や意見を聞いて選択にブレがある状態です。少年スポーツの指導で難しい理由に、コーチよりも保護者の意見の方に気持ちがいくというものがあります。僕がご家族と信頼関係ができていなければ選手にはいくら言っても根底で通じ合えません。それぞれ家庭の方針もあるし、相性もあるので仕方ない場合もあります。それが原因でその子が辞めちゃったりすると、悔しい気持ちになります。
選手と指導者のコンビだけで純粋に勝利や成長を目指していければやりやすいですが、それ以上にご家族や応援してくれる方などとうまくバランスが取れたチーム作りを目指すことが大切ですね。
せっかく縁があってボクシングを選んでくれたのだから、なるべく長いこと続けてもらい、一緒に成長していきたいものです。

篠原一三



―――選手にこうなって欲しいというと思うことはありますか?

篠原 競技を続けていく上で様々な壁があると思いますが、最後は自分で考えて、決断をして欲しいと思います。指導者が目標や作戦や好みを押し付けると、選手が成長できないという感じがします。僕は競技のルールや、基本的な技術や、昔から言われている定石を教え、こうしたらいいんじゃないかというコーチとしての考えを伝えたり、選手に向けてたくさん話をします。それをただ聞いて従うだけでなく、最後はやっぱり納得して自分のものとしてやってほしいです。僕の指導通りに試合をして、勝ってくれるのはすごく嬉しいけど、「俺はこっちのほうがいい。これをやりたい」って思うのであれば、そっちをやって欲しいですね。自分で考え、自分で決めて、自分で動くということを“楽しい”と思って欲しいと思います。それで結果として勝てれば、大きく成長できますから。

篠原一三



―――トレーナーとして、どこを目指しているのかを教えて下さい。

篠原 去年9月にプロのトレーナーとしてライセンスを返上し、2020年度よりアマチュア指導者へ転向しました。
それまでは、自分がかつてプロボクサーとして成功を目指していた以上、プロ選手たちと関わり続けるのが筋だと思っていたのですが、娘が2019年にアジア・ユース選手権で日本代表になり、一緒にハンガリーやモンゴルに日本選手団として帯同した経験から、考えが変わりました。娘が優勝して表彰台に立ち、会場に君が代が厳かに流れ、日の丸が掲揚台の真ん中に上っていくのを世界の選手団が眺めるという風景に、身震いするような感動を得ました。これは、日本で毎日、部活やジムでがんばってトレーニングを続けている全てのボクサーが目指す価値があるシーンだと思いました。子供たちにスポーツとしてのボクシングを教えたいと、改めて思うようになりました。原点に返ってきた感じがありました。
もうひとつ考えていることは、アマチュアボクシングという競技の地位向上をさせたいです。国内におけるボクシング大会をもっと盛り上げる力になりたいです。例えば、一般の方へ向けて、全国大会観戦ツアーを提案したらどうでしょうか。全国大会は、トーナメント式で優勝者を決めるので、決勝戦までにだいたい4日間連続で日程が組まれます。ウェブサイトやパンフレットに出場選手のプロフィールなどを詳細に取り上げて、選手を通して競技に興味を持っていただくようになったらいいんじゃないかと思います。四日間、開催県に全国からのファンが留まって、昼は試合観戦、夜は現地のおいしい料理を食べに街へ出る。最終日の決勝戦に向けて、勝ち残った選手を話題にしながら、数日かけて同じ興奮を共有することで絆が深まると思うんです。ファンと指導者や役員の交流も活発になり、新たにボクシングを始めようという競技人口増加のきっかけにもなれば面白いですね。
今は、アンダージュニア(15歳以下)の全国大会もあり、ご親戚やお友達などもたくさん集まりますから、そういった低年齢層向けの大会をいかにわかりやすく魅力あるものにさせるかが、アマチュアボクシング発展のための鍵でしょうね。

篠原一三



―――五輪の話が出るかなと思っていましたが、さらに壮大で驚きました。

篠原 五輪は光の夢であり、目標ですね。僕は険しい道を共に進みながら、最善のコースへいざなうコーチでしかありません。彼女は、子どもの頃から金メダルを取ることを念頭に、たゆまぬ努力を続けています 。でも、がんばっている娘の姿をいつも側で見ていると、あまりボクシングを知らない一般の人たちにもっとアピールして、競技や選手についてより多くのことを知ってもらえるよう工夫することも僕がやるべき重要な仕事ではないかと思うんです。
今の時点で、光の目標として年齢的に一番可能性があるのは2024年のパリ五輪出場ですが、その決勝戦のリングに出場する前までに、もっとたくさんの方に知ってほしい。篠原光という存在だけでなく、アマチュアボクシングについてです。ルール的にはそれほど難しいものではないですし、ボクシングという競技の面白さは一般にも理解しやすいと思います。金メダルの価値自体は本当に素晴らしいものですが、帰国した成田空港で「多彩なジャブの精度がよかった」とか「コーナーに追い詰めた後のボディブローの角度が美しかった」など試合内容を含めて評価されてこそ大成功だと思います。
自分の試合をちゃんと見てもらって祝福されるのは、選手にとって何にも代えがたい喜びですから。生き甲斐そのものですよ。

篠原一三



―――今後、スポーツ界やボクシング界、他に期待していることはありますか?

篠原 僕は十年ほど前、ジュニアスポーツ指導の公認資格を取りに行った講習で、「決して勝利主義にならず、これからの指導者は選手の気持ちに寄り添い、選手の人間的成長を最優先に指導に励んでください」と強く言われました。僕は言葉にして聞いたときに、確かにそれこそがスポーツを経験する上でもっとも大切なことだったんだと、初めて気づいたんです。
ミニバス指導を初めて三年目で監督になった時、僕は小学生の女子選手たちを相手に「勝ちたかったら辛くても根性を出して死ぬ気で走れ」などといい気分で怒鳴っていたことがあります。新人監督だったので、厳しく難しい練習メニューを乗り越えさせ、早く強いチームを作り上げたかったからです。市内ではバスケが盛んだったので、強豪ぞろいの他チームの指導者や父兄に若くても指導力があるところを見せつけたい気持ちもありました。おかげで、就任初年度から優勝することができました。監督でいた四年間に幾度となくカップやトロフィーを抱き、メダルを下げさせてもらいました。僕の評価は上がりました。
でも、僕を信じて一生懸命がんばった子もいますが、きつい練習に耐えかねてバスケを辞めてしまう子も少なくありませんでした。指導方法や選手起用について父兄と揉めることもありました。強いチームを作ったのに僕はなんとなく楽しい気持ちになれず、こんなはずじゃなかったのにという虚しさも感じていて、最後は他のコーチらを巻き込んだ喧嘩別れのように監督を辞めることになりました。僕なりにチームを良くするために一生懸命やってきたのに、なぜうまくいかなかったのか理由がわかりませんでした。
今はわかります。当時の僕はまず僕の決めた目標に選手や父兄を従わせることを優先していて、一人ひとりの人間性や競技レベルを理解しようという細やかな気配りが欠けていたのです。そのようなコーチに指導者としての魅力はないし、子どもがスポーツを通して学ぶものは多くないし、続けさせる価値もなかったと思います。

 平成30年に、我が国のスポーツ界を統括してきた日本体育協会が、日本スポーツ協会という名称に変わりました。多くの指導者が旧弊な精神論一辺倒的な考えを改め、それぞれが新しい理想像を思い描き、そうなれるように試行錯誤しています。気がつけば僕はコーチ歴二十年となりましたが、全国規模で集まる指導者講習会に参加する機会が昔よりずっと多くなりました。他競技の指導者との交流も活発になっています。人間的成長とは一体どのようなものだろうかと、僕たちは必死で考えながら指導に励むようになりました。
そんな指導者の真剣な思いが脈々と選手に伝わっていけば、将来、スポーツを通じて明るい日本の未来が見えてくるんじゃないかと思いますし、ぜひそうなって欲しいと願っています。

篠原一三



篠原一三(しのはら いちぞう)・・・1970年生まれ。静岡県出身。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。
日本スポーツ協会公認 ボクシングコーチ・ジュニアスポーツ指導員
日本キッズボクシング協会公認 審判員
日本バスケットボール協会公認コーチ
元プロボクサー