インタビュー

「人」と「人」との繋がりを大切に~光本恵子さん~

NPO法人・柔道教育ソリダリティー。“ソリダリティー”の意味は「連帯」。柔道界の要である山下泰裕さん(以下、山下先生)を、秘書としての立場から支えてこられた光本惠子さんをフォーカスしたインタビューです。種をまいて芽が出るまでの嵐を越え、成長した日本と海外を繋ぐ「絆」は、組織が変わっても枯れることなく発展していくに違いありません。

秘書としての活動とこれまでの経緯

―――最初に、秘書になられた経緯を教えてください。

 私は元々幼稚園の教師でしたが、夫と結婚してから柔道に関わるようになりました。

デンマークに東海大学付属の学校(デンマーク望星国民高等学校)があり、夫の赴任に合わせて移住していましたが、2006年に日本へ帰国。帰国後に幼稚園教師に復帰をするか迷っているところで、当時、山下先生が海外進出のために英語が話せる秘書業務を探しており依頼がありました。人と接するという部分では幼稚園児から学生に変わっただけだったので、スムーズに入ることができましたね(笑) 柔道については、知れば知るほど魅力のあるスポーツだなと感じました。

―――NPO法人・柔道教育ソリダリティーについて教えてください。

 山下先生は個人で行っていた社会貢献活動をより公共性高く、幅広く行うために2006年4月にNPO法人・柔道教育ソリダリティーを創立して、理事長に就任されました。事業内容は、国内外の柔道普及発展へのサポート、子ども達への柔道育成などです。山下先生の想いを込めてスタートしたNPO法人ですが、13年間の活動期間、喜びの声や感謝の気持ちがたくさん返ってきました。

その時は「ああ、この仕事に関われて良かったな」と感じました。特別な経験を例に挙げることは難しいですが、活動を通して、たくさんの感動や喜びが毎日のようにあったように思います。それにスリリングでした。普通では行けない国に行けましたし、普段お会いできない方にも会うことができました。柔道の教育的価値を世界に流布させていくことを山下先生は目標にされていたので、その強い気持ちをサポートできることに、私自身も誇りが自然に芽生え、やりがい以上のものを感じましたね。

―――秘書としての業務はどのようなことをされていたのでしょうか?

 多岐にわたり職務をこなされていた山下先生ですが、メインは東海大学体育学部武道学科教授です。体育学部学部長、副学長に就任されるなど、役職がお代わりになるたびに私の職務も変化していったと思います。山下先生が2003年から国際柔道連盟(IJF)の教育コーチング理事長になられていましたので、その間は海外で開催された会議への同行と、スケジュール管理や文章作成などの秘書的な業務をさせていただきました。現在は東京オリンピックの組織委員会柔道競技スポーツマネージャーを務められている山田利彦さんも当時、秘書として一緒に働いていました。仕事のスタイルは様々だと思いますが、私は最初から黒子で徹しようと思っていました。秘書を経験していくにつれて気がついたことは、これからの予定で物理的・精神的になにが必要になってくるかを先に読めるようになる必要があるということ。

あとは「心」で接することに努めていました。山下先生は誠実な方なので、私の仕事のやり方に対して、「こうあるべき」だとかは一切おっしゃらない方でした。

常に臨機応変が必要だった部分は確かです。予定のキャンセルも沢山ありましたし、突然の要望があるなど、仕事の内容に特化していませんでした。反対に山下先生に導いて頂いた面もあり、ふたりでベストな勤務形態を築けたと今では思っています。JOCの会長になられて私が引退したことを考えると、21年間の秘書勤務になります。仕事は非常に面白かったし、飽きることはなかったです。山下先生のお仕事をさせて頂いて幸せでした。

秘書として活動する中で印象的だった出来事

――光本さんから見た、山下先生はどんな方ですか?印象に残っていることを教えてください。

 秘書として印象に残っていることは、2007年9月の国際柔道連盟の教育・コーチング理事選で落選した日のことですね。何もできなかった自分の無念さや無力さ。山下先生の後ろ姿はとても悲しくて…。いまだに覚えています。「自分は教育者であるから教育に関わっていたい」教育の現場にいることにこだわり、大切にされていました。それは今でも忘れていないと思います。

これまで様々な役職に就かれましたが、みんなと同じレベルの目線でお付き合いされていました。言葉を飾って言うのが好きではないので、「単刀直入に話しましょう。腹を割って話しましょう」とよく言われる。「自分を裸の王様にしないでください」と口癖のように言われて、小さな問題も放置せず私達に耳を傾けてくれました。ロサンゼルスオリンピックで金メダルを取られたことをはじめとした、過去の栄光にも縛られず、常に目の前の事より、将来を見据えて考えてらっしゃる方です。尊敬できる方です。

―――NPO法人の活動に話が戻りますが、文化として根付いていない海外へ柔道の橋渡しをしていく活動を光本さん自身も事務局長として取り組まれ、どのようなことを感じましたか。

 いろいろな事業をさせていただきましたが、13年間の活動の中で一番心に残っている事業はイスラエルとパレスティの柔道を通した平和構築の事業です。イスラエルやパレスチナ選手の招致に関して、非常にこの事業からエネルギーをもらいました。イスラエルは「国」ですが、パレスチナは国と呼ばれていない「地域」です。国と地域をどう結べるかが最初の大きなクエスチョンマークでした。

やはり最初はこの事業は難しいのではないか、と考えました。まずは信頼関係を築くことからはじめました。そもそも、パレスティナの方々は私達を信頼しないと日本に人を派遣してくれません。日本人の派遣についても現地がどのような状況なのかよく把握できない中、外務省の方々からレクチャーを受けたり、新聞を読んだりと、あまり自分の目で確かめることができずに派遣をしますのでとても慎重になりました。

そうした中、私を中心にイスラエルとパレスチナを代表する人達でコミュニケーションを取っていく中で、徐々に国交の輪が生まれ、信頼してくれるようになり、そこから人的交流が始まりました。はじめは本当に小さな芽でしたが、「友情の芽」まで成長しました。

スポーツだけではなく、国際交流という面でも、日本だからできる国際交流になっていたと思います。私がこの事業で感じたことは、スポーツや芸術は人と人とを結びつけるパワーを持っているということ。そして、特に紛争している国と地域を結びつけるには継続する諦めない心が大事だということを学びました。イスラエルとパレスチナの他に、ボスニアヘルツゴビナの二つの地域(同じ国の中にあっても、一つの宗教によって分断されている方々)を招へいし、柔道で結びつける機会を持つこともできました。

授業事業を通して本当にすごく勉強になり、パワーもいただくことができたと思います。

「信頼関係」は何かあるとすぐに壊れてしまいます。それを継続して保っていくこと、コミュニケーションを継続していくことが大事でした。交流を今でも続けられていることに感謝しています。お互いをリスペクトし、受け入れ、話を聞いてバランスを保ちながら事業を続けていくことが大事だなと思います。

―――文化も違えば宗教も違う難しさはあると思いますが、コミュニケーションとして受け入れるなかで、難しかった部分はありましたか?

パレスチナとイスラエルの方々は、自分達に誇りを持っていると感じます。山下先生が招致してくれたことに誇りと名誉を持って日本に来てくれます。難しい点は、私たちを信頼はしていますが、お互いを受け入れることは難しいと考えています。

例えば、私たちとしてはなんとか譲歩して欲しいことが、「ここだけは譲れない」という部分がどうしてもあります。パレスチナとイスラエルは、私達だけでは解決できない、長い歴史の関係があります。両国には痛ましい歴史もあります。それを蒸し返さないように、「せっかく日本に来たんだから国際交流しようよ」と言っていますが、態度や話の中にどうしても過去の歴史が話に出てしまうこともありました。

それを埋めることが気を遣う点でしたね。「譲歩」することがすごく難しかったです。中学校の子ども達を2回分けて招致した時が大変でした。最初はバスで成田に両国の選手を迎えに行きましたが、車内の前後に分かれて座って、真ん中の空いた座席に私ひとりがポツンと座っているような状態でした。

色々な機会を作って交流を持とうと思いますが、パレスチナの人達がイスラエル人と一緒に練習したことが国に帰ってわかると、家族まで石投げられたりすることもあったそうで、その点も難しかったです。影響が出るのがわかっているので、一緒に写真を撮ることなどとんでもないことでした。そういう点に気遣うことで時間だけが過ぎてしまいますが、日本で柔道着を着て畳の上で組み合い、一緒に汗を流すとその関係が近くなるんですね!

それは凄いことだと思います。帰りのバスでは真ん中の空間がなくなっていましたから。最後はハグしてみんなで「さよなら」と言って帰ってくれるのがひとつの喜びでした。子どもだけではなく、コーチたち大人も、みんなが仲良くなって帰る姿を見た時は嬉しいです。招へいしてよかったなと思います。もちろん、紛争地域の交流でいえば、その人達が持っている歴史的な背景を一瞬にしてクリアにすることは無理です。

ですが、両国の歴史がベースにあることを鑑みて、柔道というツールで信頼関係を作り、交流をしてもらう。それ以上のことは望んではいけないかなと思うこともありました。個人の憎しみや恨みまではなくせない。でもそれを、ちょっと薄めてあげられるのが私たちの役割ではないかなと思います。現在この事業は、柔道男子日本代表の井上康生監督が「NPO法人JUDOs」として私たちの想いや志を受け継いで続けて下さっています。

今後のスポーツ界で期待したいことと活動への想い

―――今後のスポーツ界について期待したいことはどのようなことですか。

山下先生はIJF教育コーチング理事をされていた時、OSプログラムをされていて柔道発展途上国のコーチ達の育成や、柔道発展途上国へ日本人コーチを派遣する手配、IOCとコンタクトなどの業務に私も携っていました。スポーツ界で言えば、柔道は国際交流が盛んなスポーツだと思います。ですが、他のスポーツを見ても国際交流という部分ではあまり日本は進んでいないと感じています。

日本は平和な国だし、ある程度お金もあり、海外の選手を呼べる設備環境がある。これからは、もっとスポーツの域を越えてを通した国際交流ができたらいいなと思いますね。そうすれば子ども達も自然に国際性が培っていくと思うので、これからを担う世代の人たちにとってもいいことだと考えます。

日本は素晴らしい国なので、できることはたくさんあるはずです。スポーツを通してこの愛する日本で国際交流を図るという部分では、私は日本の役割は大きいと思います。

東京オリンピックは来年に延びまだ不透明な部分はありますが、開催できると信じています。この機会に、国民が一丸となって「日本での国際交流、平和の祭典」をもう一度みんなで考えてみるのもオリンピックの教育として良いですし、そこを目指せば世界へ羽ばたく若者が増えるのではないでしょうか。

―――アスリートであったり、人を支える上で一番大事なことはどのようなことだと思いますか。

「人」と「人」との繋がりですね。私は秘書でしたから、必要とされる人材になれることがひとつのミッションでした。もちろん、仕事のクオリティ、スピード、内容も大切かもしれませんが、そこに心がこもっていないとダメだと思います。よく山下先生が、「上見ても下見ても右見ても左見ても斜め横を見てもどこでもみんな人間関係ですよ」と仰っていました。信頼関係は、人と人との心がなければ結び付きません。それをいつも考えていれば、仕事が楽しくなり、クオリティが上がる。アスリートをサポートする上でもベースになると考えます。私が考えてるだけかもしれませんが、と山下先生がそうあったように、信頼関係を築き、人間関係を築いていくことが必要だと思っています。

<プロフィール>

1953年8月 東京都生まれ

立教女学院短期大学 幼児教育学部卒業後、ニュージーランドに留学。帰国後、アメリカンスクール イン ジャパンの幼稚園教師として5年間勤務

・1980年―1992年 東海大学国際友好会館勤務

世界から東海大学に招聘した研究者、スポーツ(特に柔道選手やコーチ)が終結した国際友好会館で、多くの柔道関係者と交流した。

・1992年―1996年 夫の海外赴任(東海大学デンマーク校)に同行し、現地の幼稚園でボランティア活動

・1997年から東海大学体育学部柔道研究室にて山下泰裕先生の秘書として勤務

・2006年4月に設立したNPO法人柔道教育ソリダリティー事務局長を兼務

・2019年5月 NPO法人柔道教育ソリダリティー解散と同時に山下先生の秘書事務局長を退職する

・2020年1月から東京都の2020Tokyoオリンピック組織委員会で勤務

-インタビュー

© 2021 BACK ATHLETE Powered by AFFINGER5