アスリートファーストを胸に心を込めたコールを会場全体へ届ける〜須藤尚紀さん〜

インタビューの中で度々繰り返された言葉は『アスリートファースト』ということ。須藤尚紀さんが何より選手を大切にされていることが語られる言葉1つひとつに感じられました。時には選手の背中を押し、会場を熱く盛り上げる役割を担うリングアナウンサー。私達も会場やテレビで見かける機会はありますが、実際どんな仕事をされているのか、知っている方は少ないのではないでしょうか。今回のインタビューでは、21年という長いキャリアを務められているリングアナウンサー須藤さんに迫ります!

リングアナウンサーを目指した経緯

―――リングアナウンサーを目指されたきっかけをぜひ教えてください。

須藤 ちょうど私が生まれた年に後楽園ホールができたこと、伯父が格闘技好きだったこともあり、3歳の頃からボクシングを観戦し始めていました。“三つ子の魂百まで”ではないですが、人生最初の感動が後楽園ホール。あの試合をやっている雰囲気は子どもの頃から心地よく馴染んでいました。そういった環境があったからこそ、「僕もボクサーになって世界チヤンピオンを獲る!」誰でもあるようにまずは選手に憧れ、ジムに通わせてももらいました。

当時はまだU15もなく大人のジムです。子どもだから遊んでもらう程度で、練習らしい練習はしていないですが、小学生の時に一回本格的に気を失うダウンをしたことがあり怖くなってジムには行かなくなり早くもブランク(笑)。大人になるにつれ本質的な厳しさを目の当たりにしたこともあり、ボクサーを目指すことは辞めました。他に好きなスポーツとして水泳や相撲も体験しました。

大相撲の力士になりたいとも思いましたが体重が増えず、行司を目指したこともあります。進路について色々考えましたが、行司は中学を出てすぐに入門する必要があり、現実的に20代半での決意は遅く、難しいと考えました。

それでもスポーツの世界には一生関わりたいという思いは固く、自分に何ができるかを考え、消去法的にボクシングは消えずにリングアナウンサーしか残らなかったようなこともあります。リングアナウンサーになったのは37歳の時です。

ボクサーでいえば引退する定年の歳。もう競技人になりたいという気持ちから完全に見切りをつけ腰を上げました。そこでまず始めにJBCへ電話を掛けて手紙を送りました。しかし当時は、リングアナウンサーが8人いたので『間に合っているから』という理由で最初は門前払いでした。

それでも「どうしても」ということで、後楽園ホールの観戦帰りにJBC事務局の方にあちこち声をかけ、数ヶ月に渡って諦めずにアピールしていました。「またあいつ来ているよ」みたいに思われたかもしれません。そのうち根負け?して下さって「そんなに言うなら一度履歴書を持ってきて」と言ってもらえ、ようやくそこから研修すら始まりませんが正式な接点を設けてもらえました。

リングアナウンサーを目指した理由は、大人になっていくにつれ、徐々に選手から裏方、リングアナウンサー…と、自分のフォーカスが移っていったという感じです。スポーツの試合を見ると、当然選手に目がいきますが、なんとなくスタッフ側に目がいき、観ているだけでなく自分も提供する側になりたいと思いました。世の中には表に出ない裏方の仕事があります。働いている方は本当に素晴らしいです。

私の仕事は人目につく裏方なので子どもの頃から知ることができました。憧れていた時間が長かったためか、研修期間も短く済んだ上、に辛いと感じたこともありません。子どもの頃から身に就いていたことや、教えていただくまでもなく予備知識として備わっていることが多かったと思います。どんなことに対しても抵抗なく全部受け入れ、リングアナウンサーになれました。

―――リングアナウンサーの日常や試合の日、朝からどのように過ごされ本番に臨まれているのか教えてください。

須藤 JBCのホームページにも表現されているように、試合役員はリングアナウンサーだけでなくお馴染みのレフェリー、時間の計測管理とゴングや拍子木を叩くタイムキーパーなどの職種があります。試合役員は給与職でなく名誉職になるので、他に本業を持ってもいいかわりに給与が発生しません。そのため、生業としては別の仕事をしながら活動している方ばかりです。

私も今でこそフリーになっていますが、サラリーマン時代は朝から夕方までフルタイムで仕事をしながら試合場に駆けつけていました。名誉職といってもリングアナウンサーは華やかで儲かるイメージを持たれる方も多く、理解をされにくい仕事です。そのため、同僚に知られないように配慮している部分が多かったと思います。例えば、タキシードは会社には持って行くことができない。

そのため通勤ルートを外して、朝一に水道橋駅のコインロッカーに入れてから会社に向かうこともありました。清潔も大事ですから当然クリーニングも意識していましたし、置きっぱなしにはできません。レフェリー同様、見られる仕事なのでお客様に不快な見え方にならないように整髪もしています。また、時間について試合開始の1時間前に会場へ入らないといけないので、例えば18時試合開始であれば、17時に駆け込んでいました。

大変なのがリングアナウンサーはその日にコールする内容を自分で考え、原稿を作らないといけないことです。17時に入ってそれを書いていたら間に合わないので、数日前から原稿を書いて準備していました。ファンの方も同じだと思いますが、この日にどんな試合があるとか、見所はどこだということは、ファンであった時代以上に事前から詳しく調べます。

そのため、私の理想でいえば、1日を休みにして朝から最終チェックをして準備をしておきたいのですが、現実は仕事が入っていることも多く、ギリギリが多かったです。そのため、トラブルにならないように仕事に折り合いをつけて、18時に開始だったら2時間前の16時には試合会場に着いて余裕をもったスケジュールを取っていました。

ずっとやりたかったことなので、良いことか悪いことかわかりませんが本業よりも試合役員を優先したい面もあり、転職もいくつか繰り返しました。先輩を見ていても、やはり理解されないということで転職せざるを得ない方は多かったと思います。

天秤にかけ、人生の価値観でボクシングが残った人間がいま試合役員をやっていると思っていただいても良いかもしれないです。試合役員を去られた方も批判的な意味ではなく、やはり生活がありますし、やむを得なかったと思います。能力のある方も辞められているので勿体ないなと思います。

今でも試合当日に気をつけていることは、飲食を控えめにしていることです。リングアナウンサーは試合中に休憩がほぼありません。選手コールだけでなく、リングサイドに控え、戦績をはじめとした様々なアナウンスを終了まで随時しなければならないので、トイレ休憩がとりにくいです。そのため体調管理の一環として飲食は気をつけています。

―――コールをする際に呼ぶ、ニックネームについて教えてください。選手にとって、ニックネームを付けて呼んでもらえたら「一流になった」、「トップまでいけている証拠だ」という話を聞いたことがあります。ご自身で考えて選手へ付けることもありますか?

須藤 実は私がつけたニックネームはそんなに無いです。本人もしくは後援者、ジムの会長やトレーナーの方から相談を受けるところから始まるケースが多いです。漠然と「何かつけてやってもらえませんか」という依頼も確かにあるので、そういう場合は何か考えることはあります。そのためか、選手の試合ぶりや得意のパンチなどそれぞれの個性を見ると、ニックネームをつけるかどうかに関わらず、「こんな感じのニックネームを付けたらカッコいいだろうな。喜ぶだろうな」と常々考えてはいます。

選手にとって「ニックネームを付けてもらえると本物だ」みたいなものは確かにあるかもしれないですね。例えば4回戦ぐらいの選手からの依頼は断る訳ではありませんが「まだ早いんじゃないですか」と、一応一言入れることもあります。逆にそれなりの選手には「そろそろニックネームを何かつけませんか」と私から聞くこともあります。

はじめに伝えるべきでしたが、私は選手に対して年齢に関係なく、常に尊敬の念を持っています。選手の立場で考えてコールの準備をしています。例えば、ルール上は戦績を別に言わなくてもいいのですが、すごく戦績がいい選手はやっぱり言ってほしいと思います。「全勝」、「全KO」などのコール、逆に負けている選手は言って欲しくないと思うのであえて言わないようにしています。

不公平になるかなと考えた時期もありますが今は、不公平感が出ないように例えば時間の尺は同じにして、戦績はサラっと言ったり、他のこといったりしています。4回戦のデビュー戦から始まって世界タイトルマッチのチャンピオンまで、そこは同じ気持ちで接しています。

リングアナウンサーの流儀

―――大切にされていること、気をつけていることを教えてください。

須藤 先ほども触れましたが、“自分がもし選手だったら”というイメージは常に大事にしています。『アスリートファースト』であることに繋がると思いますが、私たちの仕事は、選手が目立つためのものなので、自分が目立つ形コールではいけないし、意識が高すぎるとマイナスの面が出ます。でも、地味にやりすぎると選手が「こう言ってもらいたいのに…」とか、「なんか寂しいな」という思いをさせてしまう。

だからこそ、自分だったらというイメージを大切にしています。気をつけていることは、リングアナウンサーなので名前を間違えたら大変ですし、少し噛んでしまっても目立ってしまいます。とにかく目立つので、言葉を間違えないというよりも、間違えたと思わせないテクニックみたいなことは気をつけています。会場の雰囲気作りを最優先するトリアージ(あえて本来的な優先事項を逆転させること)は意識しています。

例えば選手の体重を少し言い間違えてしまった場合、あえて言い直さずコールを続け、訂正が必要な場合は後でリング下でするようにしています。当然、正確さが前提ですが、会場を盛り上げ、雰囲気を壊さないことは第一にしています。

会場の雰囲気について、私が記憶に残る試合としての一つに和氣慎吾選手とのエピソードがあります。2014年7月21日、彼自身の誕生日に、OPBF・Sバンタム級タイトルマッチでチャンピオンとしての故郷での凱旋試合。その時の相手の挑戦者が韓国の李ジェーソンでした。

会場は彼の地元である岡山だったのですが、韓国の応援団が押し寄せていて、「李・ジェーソン!」「李・ジェーソン!」と始終盛り上がっていて、岡山のファンの方の声援がかき消されてしまうような状況でした。和氣選手にとって地元なのに、はっきりとアウェイ感が出ていた試合でした。彼はやりにくかっただろうなと心配して、試合後に声を掛けましたが、そこで思わぬ返事が返ってきました。

「なんか地元って、やっぱりいいなって思いました!」と嬉しそうで。それがなぜなのか聞いてみたら、みんな「リーゼント!リーゼント!って、応援してくれたんっすよ!」と言っていました(笑)。李ジェーソンが和氣選手のトレードマークである髪型“リーゼント”に聞こえていたということですが、彼のメンタルの強さを見る思いでした。彼は地元であることを緊張の原因にせずにしっかり楽しめていたんです。

そういう面白い場面に出会ったこともあります。凱旋試合は選手が地元のファンに触れ合える大事な場所。ボクシングにはサッカーのようなホーム(本拠地)やアウェイ(対戦相手の地)がないので、選手の凱旋試合は担当できると嬉しいです。

―――須藤さんのコールを見ると、選手のスイッチが入り、会場のボルテージが一瞬で最高潮に上がるように感じます。

須藤 それは嬉しい表現ですね!まさに私が目指していることです。正確に情報を伝えるナウンサーという面がありますが、それ以上にエンターテイメントして選手の気持ちを高ぶらせること、お客さんの感動を呼び寄せることが私達リングアナウンサーの仕事です。これはたとえAIが発達してアナウンス的なものが自動で流せても、雰囲気づくりという点では、血の通った人間でないと生み出せないものです。

そんな仕事の一つなのかなと思っています。役者さんや芸人さんもそうだと思いますが、お客さんとの間や空気を意識するよりも雰囲気を感じるようにしています。

その会場によって、その日のお客さんによって違うコールになってくると思います。例えばお客さんが声を上げて揺れていればもっと増幅させるのがやりやすいですし、冷え切っていればちょっと熱くしなければいけない。あえて火をつけるとか。火がついているところに付けても意味がないので、今度は風を送ってもっと火を立ち上げています。

お客さんの状態と選手の状態を肌で感じてやっている気がしますね。それから、私がお礼を言うべき立場なのに、時々選手に試合後「今日もありがとうございました」と声を掛けてもらうことがあります。

私も「いい試合だったな」とか、勝った選手だったら「おめでとう」と会話をしますが、一番嬉しいのは選手が「須藤さんのコールはすごくスイッチ入ります」と言われる時です。「今日も須藤さんのコールで興奮しました」と、お客さんに声を掛けて頂くことも結構あります。どちらもすごく嬉しくて大事にしたいなと思います。その言葉が励みになって頑張ってきたというのもあります。

―――リングアナウンサーの経験のなかで、最高だったエピソードを教えてください。

須藤 2001年にリングアナウンサーにデビューして、いま21年目に入っているところです。いまでも最初のデビュー戦は緊張したことを覚えています。あの四角いリングのロープの中は特別な聖域だと思います。私にとってのデビュー戦でロープをくぐった瞬間は、すごく特別でした。ある意味図々しかったかもしれないですが、ゆっくりくぐりました。

インスペクターから「はやく入れ」と急かされはしましたが、「この中に入ったらもうこれが自分の職場なんだな」と引き締まったのを昨日のことのように鮮明に覚えています。いまでは時々、スッと入ってしまうことがありますが、初心は忘れないように自戒しています。思い出に残っている試合のエピソードについては先ほどの和氣選手以外にもたくさんあります。

内山高志選手は世界戦を全部担当させていただきましたが、特に印象深かったのが2010年1月に東京ビックサイトで行われたWBA世界スーパーフェザー級タイトルマッチ。チャンピオンのファン・カルロス・サルガド選手に挑戦し、TKOで世界王座を奪取した試合ですね。彼は当時、世界初挑戦でしたが初めてと思えないぐらいゆったり落ち着いていたのを覚えています。

世界戦には独特の雰囲気がありますが、国歌斉唱『君が代』が流れた時に「いいなぁ。これが世界戦だ」という内山選手の呟きが後ろで聞こえてきて。試合が始まる前でしたが、「こんな風に雰囲気を楽しんでいる感じだと今日はいいパフォーマンスを出すだろうな」と思いました。

初めての世界挑戦でこんなに楽しめる図々しい選手、すごいですよね(笑)。防衛回数を重ねたこともすごいですが、振り返れば彼は既にあそこから伝説をスタートしていたのではないでしょうか。世界タイトルマッチをいくつか経験しているなかでも特に印象深いです。

メンタルの強さは常識を逸脱している。本人に聞くとそんなに落ち着いてなくて、いつも緊張感たっぷりらしいですが、やっぱり特別な選手なのかなと感じました。あと、女子では天海ツナミ選手。彼女にも忘れられないエピソードもあります。2011年3月の東日本大震災直後の試合の前日、記者会見の司会も私が務めたのですが、その時に彼女が声を詰まらせたワードが「ツナミ」という言葉でした。

本名からも由来がある彼女のリングネーム『天海ツナミ』という名前に対して、東日本大震災で津波の被害に遭われた人がいることを考えると、このワードはもう封印しなきゃいけないのではないかと涙を流し、彼女はそれきり言葉が後に続かなかった。いろんな人を苦しめた名前だから改名を悩んで会長と相談をしていたそうです。私も色々聞きましたが、世界タイトルマッチ試合の前日まで彼女は悩んでいました。

それでもせっかくつけてもらった名前だから大事にしなければいけない。津波の被害者の方を忘れないという意味で名付け親でもある山木会長と相談して「このリングネームのままリングに上がる」と発表されました。私も、試合当日のコールをどうするか悩み、これは普通に名前を紹介するだけではいけないと思いました。

彼女の想いを伝える方法ないか考えて、「改名を悩み続けたリングネーム、あえてそのままに!今こそ世界に発信しよう、その強さを!その恐ろしい名前を!天海“ツナミ”~!!」と叫びました。既に”TSUNAMI”は国際語。津波の被害に遭った日本だからこそ、こういう名前なのだと思ってくれるかもしれません。逆にその恐ろしさを伝えるためリングネームをあえてつけたかのような、その日にその名前にしたと思わせるぐらいのコールをしました。

日本から代表して世界中に津波の恐ろしさを伝える。彼女の“ツナミ”という名前にダブらせたつもりです。2011年5月17日の後楽園ホール、相手に何もさせずに3R・TKOで彼女は圧勝しました。試合後に天海選手と少しやり取りをしました。「あのコールで吹っ切れてすごくいい試合ができました」と彼女は言ってくれました。世界戦は特別なので私は試合の時、胸に生花のコサージュを刺すことにしていますが、その時に彼女にそれを取って贈りました。「何もプレゼントできないから、このくらい贈らせて欲しい」それは忘れもしない思い出ですね。

彼女はその日の祝勝会に胸に花を刺して参加してくれたそうです。あの時、彼女の悩みを少しでも軽減させる手伝いができたのではないかと思っています。数少ない、私の満足したコールのひとつです。

あと、もう一つだけ忘れられないエピソードを。2008年11月2日、後楽園ホール。東日本新人王の決勝で、同じジムの選手が2人とも決勝までコマを進めて対決するというジムにしては嬉しい快

挙がありました。川崎新田ジムの片桐明彦選手と古橋大輔(現・古橋岳也)選手。同ジムである前に中学校の野球部の先輩後輩という関係でした。この試合、普段はセコンドに着く新田会長はどちらのコーナーにも着かず、中立のコーナー、つまりリングアナ席の後ろで観戦されていたんですが、試合が終わったときに振り返ると新田会長が顔をグチャグチャにして涙を流しているのが見えました。

そして「やっぱりやるんじゃなかった…」と。選手を心から大事にしている会長の真面目さを痛感して、勝敗をコールする際にもらい泣きしそうになってコールが震えてしまったのを覚えています。こんな会長のジムで育つ選手は幸せですね。

リングアナウンサーから見たこれからのスポーツ界

―――こうしていけばよりボクシング界、スポーツ界が発展していくと思うことをリングアナウンサーという視点で教えてください。

須藤 今はコロナ禍で様々なスポーツで制約があり、衰退するスポーツが出たり、選手もやむを得えず辞めてしまったり苦しい状況にあると思います。それでも大切なことは『アスリートファースト』だということですね。選手がいなければスポーツは成り立たないと思います。アスリートがいて、支えてくださるお客様「ファン」がいる。あるいはサッカーで言うまさに「サポーター」が生まれます。

そして、お客さんがいなければ経済的にも選手が戦えない。支えてくださる方がこれから増えないと競技が衰退してしまうので、まずは“選手”へ目を向けてほしいなと思います。ボクシング界もいま苦境に立たされています。ジムでは今まで通りの練習ができず、出稽古一つも制約や手続きがあり大変です。そういう事実をもっと発信して、お客さんに見てもらいたいという本音があります。

例えばプログラムなどの印刷物で何となく感じるようなショットを入れたり、現状をメディアなどでさりげなく伝えてもらったり。リングアナウンサーとしてなにかお手伝いをしたいと思っています。選手の環境を最優先に考えて物事が動けば、自然に周りも目を向けてくれるかなと思います。

危惧していることは、自分を輝かせるためにボクシングを利用する方がどこかにいるのではないかということ。関係者みんながボクシングやボクサーを利用しようとしてしまっては怖いので、そこは警戒しないといけないと考えます。

日本に限らず海外でも金銭トラブルや暴行事件など様々なトラブルが起きていますが、それでは寂しいですよね。「まず選手のこと考えてあげようよ」と思います。私達JBCの試合役員が“中立”なのは、そのためです。

どこにも加担してない、だけどボクシングそのものには加担している。先導するのではなく『サポート』です。見た目はどちらも似ていますが、自分のためにボクシングを利用するのではなく、ボクシングのために自分を利用する人間がサポートしていかなければならないと思います。リングは選手の場。裏方なのに自分の場だと思ったらリングアナウンサーは終わりです。

選手のために自分は何ができるか?そのお手伝いをしている、選手を紹介させてもらっている、と常に意識しています。中立の立場で、しかも目立つ場所にいる裏方という“意識”の難しさはそこにあります。

―――これからバックアスリートを目指したいという方々に向けて、メッセージをぜひいただきたいです。

須藤 偉そうなことは言えませんが、やっぱり基本は『アスリートファースト』ということです。それはどの競技でも同じだとこの場を借りてお伝えしたいです。もし目指すのであれば道は2つあると考えます。競技から入るか?職務から入るか?私はまず競技としてボクシングが好きで、最終的にリングアナウンサーという職務が消去法で残りましたが、逆にリングアナウンサーという職務から入る人もいるわけです。

私が研修を担当した中にもいましたがボクシングでは採用されませんでしたが他の競技のリングアナで活躍されている方もいます。まずは自分が何の競技に関わりたいのか、好きなスポーツを選択してなにができるのを考えることは大事です。

そういう方はそのスポーツを支えられますし、その世界へ入れば絶対成長すると思います。私自身を振り返れば、リングアナウンサーという職務の中で学んできたことが競技以外の様々な場面で活かされています。競技への想いがある方はアスリートに限らずスポーツを支えていく上では必要です。

現状は厳しい環境下ですが、もちろん今後のボクシング界は発展してほしいと願っています。現在、リングアナウンサーは後継者不足です。試合役員全体としても年々平均年齢だけが上がっているので、若手のアスリートと同様に試合役員も新しい人材が入ってきて欲しいです。興味のある人はぜひ来てもらいたいなと思います。

プロフィール

リングアナウンサー 須藤尚紀(すどうなおき)
JBC(一般財団法人日本ボクシングコミッション)試合役員

1962年 神奈川県横浜市西区出身。11歳上の姉、同い年の弟(双子)の3人姉弟。この年に「後楽園ホール」も竣工。

1965年 格闘技好きの伯父に連れられて「後楽園ホール」でボクシング初観戦。
①世の中にはこんなに大勢の人間が居るのか!
②ボクサーはこんなにもカッコいいのか!(=衝撃順)と1日で2つの衝撃を受ける。
遊びでジム通いはさせてもらったものの続かず。衝撃に比例する落伍感の開始。

1978年 神奈川県立横浜平沼高等学校入学後は水泳部に所属。
1年から校内記録を塗り替えて県大会では決勝進出。2年で主将。
応援団にも所属して、夜は芸大受験に備えてアトリエ通いという“3足の草鞋”を履いた。

1981年 高校卒業後は上京して本格的に美術を学びながら、舞台美術とアクションタレントとして芸能プロダクションに所属。
ここでも“複業”をこなす生活を送った。

1987年 社会人としての基盤の無さを不安に25歳で外資系の化粧品会社にデザイナーとして就職。
ただし、休日は司会業として“副業”生活。その後、家具会社のデザイナー、建築会社の設計施工の管理職。
建築現場の事故を減らす目的で心理学を学び、資格を取った学校の講師を経て、セラピスト、カウンセラー、メンタルコーチとしてまたしても“複業”生活。

2001年 夢を諦めない心理学を実践し、JBCの試合役員ライセンス(リングアナウンサー)を取得。さらに“複業”を増やす。
2006年 独立してフリー。絵画教室、デザイナー、フラワーコーディネーター、セラピスト、カウンセラー、メンタルコーチ、講演、司会、リングアナウンサーとして“複業”生活。
2020年 庭園管理士の資格も取得し、神奈川、東京、千葉、埼玉、静岡へ出張する“庭師”としても開業。マイクからペン、筆、植木バサミまで使いこなす“複業”はコロナ禍の中でも拡張中。来年(2022年)還暦を迎える。
以上

ハンドボール国際レフェリーとして世界を渡り歩く影の「演出者」~島尻真理子さん~

一枚の写真で伝えるボクシングの魅力と写真家としての想い~山口裕朗さん~

柔道選手の付き人として裏方で支えるプロフェッショナル~伊丹直喜さん~